ショウペンハウエルの読書に対する態度

 皆さんは、ショウペンハウエルの読書に関する考察を記した「読書について」を読んだことがありますか。私自身は、数年前に一度手にとって読んだのですが、その時はかなり斜め読みをして読んだために得る所は少なかったという印象です。しかし、そのななめ読みや多読というやり方こそが、ショウペンハウエルの最も批判している読書法の一つでした。

 今回は、現代人が陥りがちな読書に対する態度を鋭く批判した彼の言説を紹介しつつ、自身の感想を綴っていこうと思います。

  1. 多読することは本当に素晴らしいのか
  2. 流行の本を読めば良いのか
  3. どのような書に目を向けるべきか

1.多読することは本当に素晴らしいのか

 こんにち、大学生が月に何冊本を読むのかということが問題になっている。多くの学生が0冊と答えたためである。無論、全く本を読まないというのはショウペンハウエルに言わせてみれば論外なのであろうが、一方で私はそれとは対局にある人間であった。というのは、取り敢えず片っ端から適当にざあっと何冊も読み流す人間であったからだ。当時の自分はそれを「善い」ことだと信じ切っていた。多く読めば読むほど、教養が深まると本気で思っていた。此処でショウペンハウエルの言葉を引用する。

読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事を止めて読書に移る時、ほっとした気持になるのも、そのためである。


ショウペンハウエル『読書について』岩波文庫

 この言葉が、情報過多の現代社会に生きる私達にとって、非常に重く響くことは注目に値する。ある著者にあまりにものめり込んでしまい、彼のセミナーに通ったりを繰り返してカモにされてしまう人は、一度思考をその著者に委ねるのみならず、自分で思考するという行為に至る必要があろう。これは、人に説教するのではなく、私自身を戒める意味でも重要なことだ。

宋代の大儒朱子が「半日読書、半日静坐」を座右の銘としたことには、このような意味が含まれていたのであろう。この「静坐」ということをなくして彼の儒学に対する哲学的理解は在り得なかったのかもしれない。また、仏教とりわけ禅宗で座禅という手法が取られたことも留意するに足るのではないか。

 彼は、同時代の多読の学者を批判するにあたって、乗り物ばかりを使って歩くことを忘れた人などという比喩を用いて痛烈に批判している。本当にその書物を読者のものにするためには、「消化」しなければならないと彼は説く。

だが、熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。それとは逆に、絶えず読むだけで、読んだことを後でさらに考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう。


ショウペンハウエル『読書について』岩波文庫



2.流行の本を読めば良いのか

 近年の出版不況の中でも、大々的に喧伝されたり目につくところに山積みになっている本は少なくない。しかし、此等は直ちに出版不況に希望の光を差す存在とは成り得ない。我々はついついそのような書物に手を出しがちであるが、ショウペンハウエルはこのような書に対しては「読まずにすます技術」を提唱している。

その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。たとえば、読書会に大騒動を起こし、出版された途端に増販に増販を重ねるような政治的パンフレット、宗教喧伝用のパンフレット、小説、詩などには手を出さないことである。このような出版物の寿命は一年である。


ショウペンハウエル『読書について』岩波文庫

 此処数年もっというと、此処数十年のベストセラーと言われるものであっても、このような商業的意図のみによって出版されたものは、大衆に向けて書かれたものであって、賢者や天才の生み出したものではありえない。短いスパンの中で飛ぶように売れた書物には、時代を超えた普遍性を持っている可能性が低いということに、彼の言葉は気づきを与えてくれる。例の政治的パンフレットは、こんにちでいう徒に「愛国」を煽っているものがこれに当たるだろうし、宗教喧伝用のパンフレットは「5分で人生が変わる~」「成功者の思考法~」とかそういうものが当てはまるであろう。

 更に、彼はこのような“悪書”が無用であるに留まらず、むしろ積極的に害になるとすら主張する。様々な理由はあろうが、良書に割かれるべきであった時間が悪書に当てられてしまうことは悲劇に近い。そのような悪どい文筆家をこの上なく批判し、次のように形容する。

 現代の文筆家、すなわちパンがめあての執筆者、濫作家たちが時代のよき趣味、真の教養に対して企てた謀反は成功した。それは奸智にたけた悪事ではあったが、めざましいものであった。


ショウペンハウエル『読書について』岩波文庫



3.どのような書に目を向けるべきか

 多読もだめ、流行している作品も無闇矢鱈と手をだしてはならない、ならば、ショウペンハウエル先生はどのような本を読むのが良いとお考えなのでしょうか!多くの読者がそのような心境にあることに違いない。しかし、その問に対して彼はあまり具体的な仕方を以て、返答してくれない。

むしろ我々は、愚者のために書く執筆者が、つねに多数の読者に迎えられるという事実を思い、つねに読書のために一定の短い時間をとって、その間は、比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品だけを熟読すべきである。彼らの作品の特徴を、とやかく論ずる必要はない。良書とだけ言えば、通ずる作品である。このような作品だけが、真に我々を育て、我々を啓発する。


ショウペンハウエル『読書について』岩波文庫

 長い年月をかけて、今なお人々の心を捉えてやまない名著を読むべきであることを訴えている。誠にその通りであると思う。ほとんどの場合失敗しないであろう。恐らく、彼が言うのは百年、千年のスパンで読みつがれてきた聖賢の書に時間をさくことを甚だ勧めている。そうすることで、自身のためだけでなく、出版業界の流行への安住を我々一人一人の力で、阻止できる可能性は少なくない。


 最後に、私自身はこんにちの流行の本やベストセラーを一切読むなとは思わない。もしかすると、その中にも百年、千年と名作として読みつがれるものがあるかもしれないからだ。とは言え、そのような本は非常に慎重に見なければ、流行や大衆の渦に流されてしまう地に自ら足を踏み入れることになるであろう。

雲水雑記【哲学、芸術、観光】

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